三河線の末端区間が廃線になって、今年で20年になります。

今回と次回で、三河線の末端区間の廃線間際(2004年2~3月)の様子を振り返りたいと思います。




まずは、簡単に概要を(参考:Wekipedia)。
元々、三河線は、吉良吉田~知立間と知立~西中金間の全線電化の路線で、吉良吉田~知立間が海線、知立~西中金間が山線と呼ばれていました。
利用者の減少により、末端区間である山線の猿投~西中金間が1985年から、海線の吉良吉田~碧南間が1990年からLEカー(レールバス)での運行となり、電気設備の撤去が行われると同時にワンマン運転が行われるようになりました。
LEカーでのワンマン運転や電気設備の撤去といった合理化を行っても、乗客の減少は止まらず、末端区間は、谷汲線や八百津線などと同時期の2001年9月末の運行をもって廃線となる旨名鉄より沿線自治体に通知されましたが、沿線自治体から赤字補填を受け、2001年10月以降も運行が続けられました。
しかしながら、路線の継続には、老朽化した海線の矢作川橋梁の架け替えなど莫大の費用がかかることから、バスにより代替されることになり、2004年3月31日の運行をもって、末端区間の猿投~西中金間と吉良吉田~碧南間は廃止となりました。

今回は、山線(猿投~西中金間)について、猿投から下るように写真をもとに紹介いたします。
猿投~西中金間には、途中、三河御船駅・枝下(しだれ)駅・三河広瀬駅の途中駅がありました。
三河御船駅(2004年2月撮影)。
手前の更地(舗装されていない部分)は、以前は駅舎があったのでしょうか。

 

枝下駅(2004年2月撮影)。
枝下駅にも空地になっているところがありましたが、こちらも駅舎があったのでしょうかね?

枝下駅にあった「乗ろう!! 育てよう!!」の看板(2004年2月撮影)。
この時、たまたま居合わせた地域の方が、「廃線は残念だ」と嘆いておられたのが印象に残っています。

廃線直前には、「乗ろう!! 育てよう!!」の看板の裏側に、「76年間ありがとうサヨナラ」の看板が掲げられていました(2004年3月撮影)。




走行写真もご覧ください。枝下~三河広瀬間の矢作川橋梁を渡るキハ30形(2004年3月撮影)。
キハ30形は、1995年に登場。
長良川鉄道のナガラ300形などと同様の富士重工業製のLE-DCですが、3扉となっているのが他社の車両とは異なります。
三河線末端区間の廃線後は、ミャンマー国鉄に譲渡されています。

三河広瀬~西中金間を走るキハ30形(2004年2月撮影)。

ここからは、終点の西中金駅周辺の様子を紹介します。西中金駅で発車を待つキハ30形(2004年2月撮影)。

「スタフ確認」の看板(2004年2月撮影)。
猿投~西中金間は、交換設備なし・一閉塞のスタフ閉塞でした。

廃線直前には、廃線を惜しむ看板が地域の方々により掲げられていました(2004年3月撮影)。

駅名看板の下に掲げらていた看板は、名鉄により掲げられたものですね(2004年3月撮影)。

西中金駅に停車するキハ30形の重連(2004年3月撮影)。
廃線直前には、名称列車「かえで号」の系統板を掲出しての運転が行われました。

写真の手前側が車止めなのですが、路線を足助まで伸ばす計画があったからか、西中金駅からもう少し線路が伸びていました。
足助まで路線が伸びていたら、路線の存廃も違う結果になったかもしれません。

最後になりましたが、猿投~西中金間は、三河広瀬駅・西中金駅の駅舎が国の登録有形文化財に指定されて残されているほか、廃線跡を遊歩道にする計画があり、レールがそのまま残されているそうです。
廃線後は、一度も訪れることができていませんが、ぜひ様子を見に行きたいですね。

次回は、海線の吉良吉田~碧南間の廃線間際の写真を紹介したいと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

おわり。


投稿者 めいはん

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